最近、僕のワードロープに異変が起った!半年前に、とあるファストファッションブランドのデニムを6本(3段階の色落ち具合で、同じシルエット3パターン X 各2本づづ)を大量買いしてしまったのだ。といっても一本3000円ぐらいだからたいしたことはない。なぜ、そんなことをしたのかといえば、僕のお尻にジャストフィットして、動き(ストレッチ具合)が楽だったからである。それからという毎日は、デニムばかり履くようになってしまい、あれだけデニムを否定してきた自分が今ではデニム好きになってしまったのである。
今まで僕の中でデニムというものは、没個性の象徴アイテムとして位置づけられていた。裾のシルエットやウォッシュ加工の色落ちやダメージ具合い、バックポケットのステッチデザインの違いぐらいだけで、他者との違いを表現しにくいのではないのか。また、見た目はあまり変わらないのにファストブランドからハイエンドブランドまで価格帯幅があまりにも広すぎて、どうも納得していなかった自分があったのです。今回はそんなエピソードを踏まえ、「人は服に何を求めるのか?」といったテーマでお話しようと思います。
巷の服飾本の多くは「服とは個性である」「服とは自己表現である」「服とはメッセージである」などといった類いのコンセプトが多く散見されます。僕自身も大まかにはそのように認識していました。しかし、あまり癖のないベーシックなデニムを毎日履くことによって、ちょっと待てよ、「ベーシック」というものの魅力とは一体何だろうと自問自答が始まったのです。今さら何を言うのかと思う方もいるかもしれませんが、よくよく自己分析してみると、ベーシックの代表選手的なデニムを取り入れることで、形を変えた「ノームコアの実証検分」といった感じになっていたことに気づくのでした。
ベーシックアイテムを身につけるということは、着る人の個性を消し去るもので、つまらないのではないかと思い込んでいた自己概念を、デニム一本でいとも簡単に払拭させられたことに意外な驚きを覚え、そうか、ベーシックには着る本人の個性を逆に炙り出す効果もあるということに気づかされたのです。
着る本人の個性とベーシックアイテムの関係は、本人の個性が「主」であり、ベーシックアイテムが「従」にあたります。ベーシックにはデザイナーやメーカーの流行や価値観が極力消し込まれており、ある意味、ニュートラルな状態と言えるのでしょう。よって主従の関係は成立しやすいのですが、もし服に強い個性をつけた場合、主である個性はそれなりの力量で従を使い熟さなくてはなりません。それはとてもチャレンジのいることであり、危険な試しとなる場合を含んでしまうのです。
結局、今回のノームコアの実証検分において、何を意味するのかと言いますと、「服にあまり主張を持たせてはいけない!」というメッセージでありました。服に自分の個性を代弁させるのではなく、着心地や気軽さを優先させるべきではないかということなのです。
服装術には「かくあるべき」といったハッキリとした答えを求めずとも、ベーシックアイテムを上手く操る術を知ることは、日々変化する流行ファッションに踊らせられない“自信”というものを持ち得るヒントになるようです。デニム一本とっても深い蘊蓄や流行は当然あるでしょうが、言わずもがな、ファッションには知的センスや時代をキャッチするセンスも問われるものだと、デニムを通して実感させられました。
いつぞやだったかユニクロ社長の柳井正氏はこんなことを仰っていました。「服は部品である。つまり主役は人である。」これもひとつのポリシーだと思います。人と服との関係性、ほんとまだまだ知りたいことばかりです。
関連コラム:VOL.97 [ノームコアと頓知](2014.04.08掲載)
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添付写真:半年前に購入した同じシルエット3パターンのデニム。各2本づづ購入した理由は、製品サイクルが短いため来年発売したときにはデザインや色落ち具合が微妙に変更されている可能性が高いと読んだのです。僕自身、今年のデザインがかなり気に入っているで買いだめを兼ねてのこと。
【次回予告】 テーマ:高倉健さんへの追悼コラムです。(VOL.105)