前回のコラムでは、真実の「美」が生まれる条件を足早に説明しました。後世にまで残る美を生ませるには、どこに向けたベクトルが良いのかということです。矛先が善方向(世の為、人の為)に向かうことにより、真実の美は具現化されるということでした。今回のテーマは、美について違う角度からお話出来ればと思います。
まず美を具現化させるために、本来なら見た目の表層的な角度で美をお伝えしなければなりませんが、誰もが持つ美意識なる感覚というのは、人それぞれ千差万別に違うものであります。ですので、その感覚を集約させ、限りなく絶対的なる美というものを求める必要性が出てくるのです。なんだか小難しい頓知のような話になってきましたが、実はここで「潤い」というものがキーワードになってきます。この潤いなる正体に近ずくことこそ、美の理想も見えてくるのです。
化粧品メーカーがよく「潤い」という言葉を広告コピーで使いますが、これはあることに満たされている状態であったり、余裕を感じさせるニュアンスで使われています。こと我々の日常生活に「潤い」を当てはめるとしたら、一体どのようなものになるのでしょうか。
私なりに解釈するならば、「潤い」=「ヒント」「インスピレーション」といったイメージではないかと思うのです。さらに分かりやすく反対語にしてみると「エゴ」「我欲」といった感じです。潤いのある美を創出させるには、まず自分が潤いに満たされ、そしてその潤いを外へと流してゆくというのがポイントです。あまり「自分が自分が」といった利己的な考えで美を捉え、自分さえ美しければ他は知らないよ!では美は本物には成り得ません。自分で努力して体現したものを自分だけのものとせず、外に流してこそ本当の美が成立するものと考えるのであります。まさにWIN-WINの世界が創出されるというわけです(美の環境整備)。例えば、ひとつの映画で説明してみます。
今は亡きオードリー・ヘップバーンというアメリカの有名な女優さんがいました。彼女の代表作品となった「ローマの休日」があります。私が初めてこの映画を観たのは、小さい頃に民放放送「ゴールデン洋画劇場」だったと思います。
ストーリーは、とあるヨーロッパ王室の王女がイタリアに表敬訪問している最中の出来事。王女は過密スケジュールのストレスから城を抜け出し、一人の新聞記者に出会う。王女は新聞記者とローマ市内を観光しながら、徐々に新聞記者に惹かれてゆくというもの。私は幼心にも印象に残ったのは「王女と新聞記者は惹かれ合う二人なのに、身分の違いだけで別れなければならないというのは、なんか寂しいな~」といった、やるせない気持ちでした。だが、この映画には、しっかり観る者に訴えるメッセージがあります。それはどんなに地位や格式の違いがあろうとも、男女の恋愛にはそんなものは関係なく惹かれ合うものということ。王女の純粋性は、ひとりの人間として観る者を微笑ましくさせてくれました。ヘップバーンの最大の魅力である天真爛漫な人間性が、まさに「ローマの休日」で開花されていたのでした。
ゆえに、本当の美といものには、やはり「普遍的である」という属性が必要となるのです。ヘップバーン自身の「純粋性」しかり、誰もが持つ「純粋に人を愛する」という気持ちは、普遍的な美に通じるのです。
そして、自身の努力によって感受性を高めつつ、その創造的エネルギーが見る者への希望や夢、感動に点火された瞬間、美といものは輝きを放ち、証明されてゆくのであります。
結局、美の理想というのは、何か対象作品に触れた時、自身に何かインスピレーションが湧いてきた、ヒントを与えてくれた、私もそうなりたい、近づきたい、そのような想いに駆られたり湧き上げることが、まさに自身が潤された瞬間となるのです。それは「感化力」や「影響力」といった言葉で置き換えることもできます。私達は、本来、そのような潤いを与える側にこそ目指すべき人生の道があるのかもしれません。
添付写真:1953年にアメリカで公開された映画「ローマの休日」。王女にオードリー・ヘップバーン、新聞記者をグレゴリー・ペックが演じている。この時、新人だったオードリー・ヘプバーンは、1953年のアカデミー賞において、アカデミー最優秀主演女優賞を受賞している。
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